紅椿が好き

司法試験舐めてた私が、司法試験3回目でようやっと合格しました

加害者に向き合うことと、被害者に向き合うこと、死刑

私は刑事弁護をしたいけど、被害者支援はしたくないと思っています。

 

性犯罪の被害者支援なんてしたら、蓋をしているもの、見たくない感情と向き合わざるを得ないからです。

共感なんてしようとしなくても、フラッシュバックするのが確実だからです。

研修で被害者はこんな気持ちです、と聞かされるたびに、何でこんなことを聞かされて、心をざわつかされなければいけないのだろうかと思います。

 

逆に刑事弁護であれば、被害回復に務めることもできるし、私は被害者に自分を投影せざるを得ないということは避けられます。

「何でそんなことしたの?」という自分の責めたい気持ちを自覚できます。

私は被害の怒りには触れられても、無力感、自分が被害者である悲しみを実感しなくていいのです。

 

 

昨日、オルトナー*1

さんが、龍谷大学で、死刑について話しておられました。

 

その中で、

ドイツなどのヨーロッパでも

残虐な行為に対して、加害者に対して報復したいという感情や怒りは社会の中にある。

しかし、感情を直接法に影響させるべきではないという考えがある。

だから、死刑を廃止しているドイツやフランスで、残虐なテロがあったとしても

死刑を復活させようという動きは生じない。

という話がありました。

 

感情を法に直接影響させるべきでないというのは

私にはなかなか当たり前ながら衝撃的なことで、

これが完全に腑に落ちるのはきっとさらに先だと思うのですが、

「そうだよね」と納得しているところは大きいです。

 

中学校のときに、とある人を、大人数で囲んで(おそらく言葉だけだと思いますが)めちゃくちゃ言って2度と学校にこれないようにしたろうという計画が耳に入って、邪魔しに行ったことがあります。

しかし、邪魔しに行くまでには、葛藤がありまして

というのも、その計画が発生したのは、その人が、いろんな女の子の外見の悪口を言いまくっていたからだったのです。

計画をした人たちの怒りももっともだと思いました。

 

その怒りは正当だけど、それをその形でぶつけるのはまずいんでないのと思ったのです。

怒っている人たちにとって後悔しないものになるかと言われたらそうじゃないんじゃないかと思い、自己満足で邪魔したのですが・・・それはともかく。

 

死刑に関して、昨日までの私は、もし自分の妹が殺されたら確実に相手を殺そうとするだろうからそれなら国家に殺してもらった方がいいと思っていたし、その感情自体は正当なものだと思う、だから、他の人がそう思っても仕方ないし、死刑ってあっていいんじゃないの、と思っていました。

 

しかし、その報復感情が正しいものだとしても、それを実現するのが正しいかはまた別だし、少なくとも国家が後押しして実現させたらダメなんじゃないのというのが、今の私の考えです。

 

報復感情を実現しなければいけないという気持ちがありましたが、必ずしもそうでもないというのが、被害者の経験があるのに被害者支援をしたくない私の罪悪感を軽くしてくれたという謎の効用がありました。

 

もっと自分の考えも深まるかもしれませんが、昨日の今日の新鮮な私の考えを記録しておくのも面白いかなと思いました。

*1:ドイツ人ジャーナリスト、

ヘルムート・オルトナー|日本評論社